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まなざしの呪縛 - 真珠の耳飾りの少女を観ない

マウリッツハイス美術館展
真珠の耳飾りの少女 008
2012年8月の最後の日娘とマウリッツハイス美術館展に行った。行列に40分並びフェルメール『真珠の耳飾りの少女』を観る。整理員に促され歩を進めながら数秒間の流し見で残った印象はただ漠然とした既視感であり高揚はない。連れは不自然に浮き出た襟の白さばかりが目に付いたという。なるほどそういわれればそうかも。全体の調和を乱す部分の突出は、たとえば『青衣の女』の衣の青の過剰と同様修復の副作用だろうか。いずれにしろ二人はこんなはずではないと感じたわけで最前列から一歩下がった位置で今度はじっくり見ることにする。ターバンのウルトラマリンブルー、補色をなす上衣の黄、何かを言いたげな濡れた唇、耳飾りに射す二つのポワンティエ、そして揺らぐ視線、どれも既に観ていた。それらは画集、教科書、美術誌、葉書、ポスター、そしてTV番組、繰返し観た物の追体験でしかない。しかし。突然だった。右の瞳のキャッチライトから頬へ視線を下げた刹那、透明感ある白肌の切れば血の出るリアリティーに胸を衝かれた。それは際限なくプリント可能な写真には写し撮ることができないマチエールの存在感。正直ほっとした、実物を観て何も感じなかったらどうしようという焦燥から開放された瞬間だ。
そうだったのか、意味ありげな視線に囚われていたのだ。少女のまなざしはどれほど言及されてきたか。たとえば「人々は、なかなかその絵の前を動かない。あるいは、まなざしに射すくめられて、動けないのだ」と有吉玉青は記す。われわれは何度となく多様なメディアを介して少女に射すくめられていたのだ。これこそデジャヴの正体だ。確かに魅惑的なまなざしだが語られすぎて陳腐化した、手垢にまみれたといってもいい。合った視線をそっとそらすことで別の少女に触れることができる、まなざしの呪縛を解くことで新たな関係を結ぶことができるのだ。
観ないことで観えるものが確かに、ある。思い出すのは・・・
2008年10月『小路』を観た時の事である。高橋達史によれば赤い鎧戸と扉口とに挟まれた一条の白い筋を「絵の命綱」としてそれを描くためにこそ『小路』を描いた。なるほど直線的な白は絵の中に際立っていた。扉を挟んだ隣のやや広い白筋はそれに対して歪んでいて微妙に膨らんだり萎んだりいているように観えた。あるものを欠如させることでその機能を推測するのは科学の常套だがふと思いついた遊び心で人差し指で「絵の命綱」を隠して観た。するとどうだろう、思いがけないことが起こった。一瞬建物全体が有機体のようにぐにゃりとうごめいたのである。指を退け改めて建物を観ればいたるところに実在の建物にはみられないであろう歪みが認められる。この歪みが動きの源か。だとすると一条の白筋は建物=有機体のいわば「クッションの留金」ではないか。建物を鎮めるためにフェルメールをしてそれを描かしめた?描きたかったというよりはむしろ描かざるを得なかったのではなかろうか。
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テーマ : 絵画
ジャンル : 学問・文化・芸術

館長庵野秀明特撮博物館

樋口真じ120812特撮博物館 005特撮120812特撮博物館 010巨神兵120812特撮博物館 012巨神兵120812特撮博物館 011
2012年8月12日東京都現代美術館の特撮博物館に行った。入場券を買うための行列に40分並ぶ。入場後も短編映画『巨神兵東京に現わる』の行列に加わりそれでも立ち見だったがこれだけで入場料1400円の元は取れる。メイキングビデオは必見、こちらを先に見るのも手か。壊すための造形に注がれる尋常ならざる熱情は他の芸術分野のそれに勝るとも劣らない、ことがよくわかった。


3種類の細胞

団まりな著『生物の複雑さを読む』(1996年)・『細胞の意思』(2008年)によれば、細胞は複雑さの程度により次の3つに分けられる。

① 原核細胞(モネラ・素胞)
② ハプロイド細胞(ハプロン・単胞):複数の①の融合、細胞分化は限定的。
③ ディプロイド細胞(ディプロン・複胞):2つの②の融合、多様な細胞分化、分裂回数は限定的。

これらは階層が異なる。それらを「細胞」なる一つのカテゴリーでくくってしまうと、「生物現象に対する理解もおのずとシャープさに欠けるものとなってしまう」。真核細胞というコインの表裏がディプロイドとハプロイド、ではない!ハプロイドは独立の生命体である。

細胞説の「細胞は生命の最小単位である」は誤りである。「生命の最小単位は原核細胞である」とすべきである。

テーマ : 博物学・自然・生き物
ジャンル : 学問・文化・芸術

手賀沼の野鳥はなぜ減ったか

手賀沼120603手賀沼 003

我孫子野鳥を守る会の『手賀沼の野鳥Ⅲ~食性別生息区分から見た水鳥の変遷』によれば、2000年前後からの手賀沼の野鳥の減少の原因として考えられるのは以下である。

1) 1999年完成の手賀大橋の架け替えに伴い出洲が除去された。これにより隘路がなくなり上沼の流れが促進された。
2) 2000年、北千葉導水が本格稼動した。沼環境が川環境へ変わった。1)との相乗効果で、中洲や干潟が減少、CODも減少、それに伴いプランクトンが減少、さらにそれを食べるカモ類と魚が減少した。魚を食べる鳥も減少した。
3) 2004年、手賀沼南岸ふれあい緑道が完成した。これにより塒あるいは営巣地であったアシなどの抽水植物が減少し、さらに、堤防の高さが増したうえ通行者が激増したため、鳥は安心できる休息場所を失った。

かつて手賀沼に多く生息したキンクロハジロが、きれいになった手賀沼に戻って来ない事実は、一度悪化させてしまった環境を元の状態に戻すことが非常に困難であることを示唆する。
多くの鳥が減少している一方、コブハクチョウ、カンムリカイツブリ、チュウサギなど一部の鳥は増加している。

テーマ : 博物学・自然・生き物
ジャンル : 学問・文化・芸術

フェルメールブルーの過剰

「青衣の女」には期待していた。なんせ、「静謐の画家」フェルメールの作品の中でももっとも静かな絵(藤田令伊2011)であり、彼の必ずしも長くない絶頂期の傑作であり、フェルメールブルー全開で、なおかつ修復後世界初公開でもあるのだ。

フェルメール120111船戸 010

今回のフェルメール作品は三つだが、「手紙を書く女と召使い」はすでに見ているので初めては二つだけ。
まず、「手紙を書く女」。一般的にはさほど人気の高い作品ではない(朽木ゆり子2008)が、意外とよかった。同時代の画家たちの作品の多くが時代がかって見えるのにこの作品はまったく古さを感じさせない。道具箱の飾り、机上のネックレス、耳飾り、髪飾り、そして椅子の留め金へ連鎖する輝き。それら星座と交叉する天の川のごときテンの毛皮。光の画家の面目躍如。けれど、カメラ目線がアイドル写真のあざとさを感じさせる。視線を逸らし空を漂わせれば、静寂はさらに増しただろうに。

さて、「青衣の女」。静寂ではない。正直な第一印象だ。
静謐の画家が描いた最も静かな作品のはずなのに・・・
なぜか?フェルメールブルーが突出している。特に青衣の影の紺と壁のコントラストが作品に向けられる視線を吸引し眼を刺激する。背後の地図に溶け込むような、手紙に眼を落とす横顔や手紙を握る手とのバランスが明らかに崩れてしまっている。これは、画集の静寂な「青衣の女」ではない。
修復のせいか。白壁にブルーを浮かび上がらせた。確かにこれは修復の恩恵だろう。だが、青衣のブルーは過剰だ。フェルメールブルーでない。修復のアーティファクトなのだろうか。そうであってほしい・・・

晩年の作品「手紙を書く女と召使い」には物語性や具体性が増しており、その分、美の普遍性が後退している。この絵をいつまでも見ていたいとは感じない。左のカーテンのてかてかしたべたな黒は、エレガントとはいえない青衣の影の紺と呼応するようだ。

この展覧会での意外な掘り出し物?はヤーコブ・オホテルフェルト「牡蠣を食べる」だ。グラスの柄、耳飾り、ドレスの飾り、瓶にさす輝きに目を見張る。フェルメールに影響を与えた、デ・ホーホやテル・ボルフなどより、フェルメールに近い普遍的な美しさを感じた。ただ物語性はちょっと鬱陶しいが・・・
この絵が見られただけで展覧会のもとは取れかな。

なぜ鳥を見るのか

ティンバーゲン著『鳥の生活』によれば、人が鳥を観察するのは次のような理由が考えられる。
1) 鳥が美しいから。
2) 鳥の見られる場所が美しい景色だから。
3) 親しい友達のようなものだから。
4) 面白い生き物だから。鳥に興味を持たない人よりずっと幸せである。
5) 鳥の数の増減の仕組みがわかれば、人類にとって重要な動物の数をコントロールする方法が見つかるかもしれないから。
6) 鳥の行動を知ることは、ヒトの本能を理解することにつながるから。

シギチのサイト『SHORE BIRDS IN JAPAN』の管理人はしもさんのブログ『バードウォッチングの本質』に、はしもさんの御師匠T-Shiota氏の興味深い記事がある。
『バードウォッチングの本質』

遺伝暗号をめぐるがむしゃらな推論の時代

ブライアン・ヘイズ著『ベッドルームで群論を』4遺伝暗号をひねり出す(pp77-104)によれば、ニーレンバーグとマッセイ(マタイ)らによる遺伝暗号解読以前に、4塩基のトリプレット64組をいかに20種のアミノ酸に対応させ、そして、区切りをつける必要の無いコンマ・フリーの暗号を目指した、「遺伝暗号をめぐるがむしゃらな推論の時代」があった。
そのさきがけが、ガモフのダイヤモンド暗号である。それによれば、DNAの二重らせんの外側の溝にアミノ酸がはまり込むダイヤ型のくぼみができる。くばみはダイヤモンドの四隅にある塩基によって区切られる。この抽象理論はネイチャーに発表され多くの研究者の心を打ち、のちのちまで影響をあたえる。
この説では、1塩基の置換で連続する複数のアミノ酸に変化が起こりうる。それを否定したのが、ブレンナーだった。
解明された遺伝暗号は、仮説としてあみ出された暗号より魅力的ではないように見えた。しかし、その後の研究から、実際の遺伝暗号が突然変異に対して最適化されていることがわかる。やはり、人知を超えたものだったのである。

男と女はトポロジカルに別物

福岡伸一著『ルリボシカミキリの青』によれば、私たちヒトはトポロジー的にちくわのようなものである。ちくわの穴は消化管に当たる。尿道、汗腺、涙腺は行き止まりのくぼみなのでちくわに変わりはない。そして、「女性の子宮も、文字通り、袋小路である」(p180)。
さて、子宮はほんとうにくぼみなのか?
であれば、卵巣から排卵された卵はどこから来る。もちろん輸卵管(ファロピウス管)が卵を受け取り、子宮へ排出する。したがって、子宮はたんなるくぼみではなく、ちくわの内部に通じる穴である。女性には裏も表もないことになる?!
子宮のない男性にはこの穴がない。なので、男と女はトポロジカルに別物ということになる。
しかし、ミクロのレベルでヒトを見れば、体には無数の穴が開いており、血管にすら血球の通るほどの大きな穴が開いているわけだから、トポロジーは意味をなさない。

餌付けは生物のためになるのか

鷲谷いずみ著『生物多様性入門』(2010)によれば、餌付けは特別な場合を除いて、厳重につつしむべきである。
なぜなら、
1) 野生動物を中途半端に「家畜化」してしまうことになる。人をあてにして、自分で餌をとることができなくなる。
2) 環境収容力をこえて同種が集中するので病気の流行をまねく。
3) 間接的に他の生物や生態系に望ましくない影響を与える。たとえば、餌付けられたハクチョウの糞によって、沼が富栄養化する。

餌づけの罪

小島望著『生物多様性と現代社会』(2010)によれば、餌づけには3つの問題がある。

1) 生態系のバランスを崩壊させる。 対象種の栄養条件・繁殖条件がよくなる→個体数が増える、行動を変える、過密な集中が起こる→他種へ影響する→生態系のバランスが崩壊する。
2) 野生生物に感染症が伝播する。 ペットや家畜の持つ伝染病をヒトが介して、野生動物に広めてしまう。たとえば、2005年から2007年の北海道でのスズメの大量死は、サルモネラ菌が餌台を通じて感染拡大したことが主要因と推定されている。
3) 野生動物がヒトの生活圏へ侵入する。 餌に誘引された動物が農作物被害を起こすと、害獣として駆除される。
野生動物に餌をやることは、正当な理由はどこにもない。絶滅危惧種の餌づけは個体数が増えるまでの例外的措置である。  
プロフィール

Author:lvegae
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